創始者 金子鷗亭

金子鷗亭

金子鷗亭 Outei Kaneko(1906-2001)


上京

二十代で上京した鷗亭は、昭和の空海と称された比田井天来に師事し、研鑽を積みます。天来の指導は、師が書いた手本を習うという方法ではなく、中国や日本の古典を自ら深く探求し、そこから書の真髄を体得するというものでした。こうした天来の考えに、青年鷗亭は水を得た魚のように伸びやかに育っていきます。


詩文書の理論を打ち出す

そして、現在多くの書家に支持され、書の一分野として定着した「詩文書」を切り開く第一歩、「新調和体論」と題する考察を発表し、書壇に大革命を起こすことになりました。 書の古典は、それぞれの時代においての文体で書かれたものですから、これからの時代に自分たちが書こうとする書も、その時代の文体を表現することが当然と考えたのでした。


戦後書壇の再興に力を尽くす

戦後は、第一回毎日書道展の開催に尽力し、書道文化の再興を願いました。この毎日書道展は毎年回を重ねるごとに優秀な作品が生まれ、新しい書を求める作家がたくさん出品するようになります。戦後の書道の発展に毎日書道展は欠くことのできない存在でした。
特に鷗亭は、毎日書道展の初期より詩文書を重視して、独立した部門とすることに力を尽くしました。伝統的な書とともに現代的な詩文書や大字書、前衛書などが共に発展していくことが、鷗亭の考える新しい書の文化だったのです。


創玄書道会を設立

全国の同志を結集して創玄書道会を設立します。創玄の書は、漢字は大字書を平明な表現で、かなは読みやすさを、詩文書は古法を踏まえてと、書が一般の人に理解されるようにという理念がしっかりと反映されました。そして、篆刻部は今や日本を代表する作家を多く輩出するにいたっています。鷗亭は書を愛するもの全てが仲良く研鑽し、交流を深めることができる会をつくりました。この理念は全国各地に及び、賛同する会員は年々増加して行きます。


数々の功績

鷗亭の書道に対する長年の努力が評価され、1966年には日展文部大臣賞、1967年には日本芸術員賞、1987年には毎日芸術賞と数々の大きな賞を受賞します。そして1987年には文化功労者として顕彰され、1990年には日本国最高の名誉とされる文化勲章を受賞しました。


鷗亭の理想は脈々と

鷗亭は、書が旧来のかたちのみに固執するのではなく、その時代にあった表現をすることに強くこだわってきました。実際に創玄書道会ではその理念を受け継ぎ、現在も刻々と新しい時代にあった書が創造されています。
現在はコンピュータ技術とインターネットの飛躍的な発展により、人々はさらに合理性を追求し、手で文字を書くことすら忘れてしまいそうな時代です。そんな時代だからこそ、その時代の言葉による、人間の手で書かれた書を鑑賞し、感動を共感することが、より貴重なものになっています。鷗亭が追求した書の文化は、現在でもこのように姿を変えつつ生きているといえるでしょう。

copyright (c) 創玄書道会 All rights reserved.